岡崎隆彌作品集 伊賀焼 伊賀うへい窯

穴窯

穴窯と岡崎隆彌

2008年、11年使用した窯が修理が必要となりました。この際と思い取り壊して新しく築くことにしました。
うへい窯4代目の窯です、これが最後の窯かなと思い一人でコツコツと丈夫に作りました。初窯をたいてみれはたき手は老いても新しい若い窯はなかなかターボ、油断するとどんどん温度が上がりそうでおさえるのに苦労します。
しっかり丈夫に作ったのでたき手より長生きしてくれるでしょう。

窯詰め風景

窯詰め

窯詰めは、手間と根気と”よみ”のいる仕事です。棚板に品物がくっつかないように品物全ての底により土(道具土)をつけて窯詰めします。より土の跡は目跡として品物に残ります。窯の中は、場所によって温度や灰かぶり具合が違うので どこに何を置くのか、焼き上がりをよんで詰めていきます。

火入れ

火入れ

窯詰めが終わると、戸締め(とじめ)をして火入れをします。始め、ちょろちょろのあぶりは、火を絶やさぬよう、風が入らぬよう、又急に温度を上げないようにゆっくりとたきます。

窯たき

窯たき

1100度から1280度位まで、幾度と温度が上がらない時間帯がでてきます。「あがらない。あがらない。 」といいながらも、辛抱強く上げて行きます。
100時間前後、膨大なマキをほうりこみます。

煙

沿道から出る煙は、最初はほとんどわからない程薄い煙です。900度前後から還元をかけるようになると、マキ入れる度に煙がもうもうと出てきます。その煙が消えてら、又次にマキを入れる。煙はまきを入れるタイミングを教えてくれるのです。1250度も過ぎると赤い火柱が立ち窯たきも大詰めを迎えます。

窯出し

窯だし

ゆっくりさましてから、窯出しをすれば良いのだが、なかなか待てない。少しづつ空気を入れて冷ましてゆき、火をとめてから四日くらいで窯出しをします。窯の中サウナ状態で流れる汗の中、焼き具合を確かめるのはスリリング!楽しくも、恐くもあります。

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穴窯による焼き方の再現を目指して

~陶芸家 岡崎 隆彌氏の体験から    


愛知県瀬戸市は焼き物で有名であるが、近年は円高の影響などで以前ほど活気がないように見受けられる。
瀬戸の陶芸家の多くは現在、ガス窯や電気窯を使っているけれども、その中で昔の焼き方を再現してみようと、
穴窯を作り、薪をで焚いている陶芸家がいた。岡崎隆彌さんという方で、今は三重県阿山町で仕事をされている。
岡崎さんのされていることは、時間を超越した技術の承継と思われる。
今回、岡崎さんから、その活動について直接話をうかがった。



写真1 瀬戸で使っていた窯

1 陶芸家を志す

岡崎さんは1944年に大阪で生まれ、大阪で育った。陶芸家の家庭に育ったのではなかった。
1968年、24歳の時、旭町(現在の尾張旭市)にあった窯業訓練校に入校した。
翌年卒業し、京都で就職する事が決まっていたけれども、訳あって瀬戸にあるタイル会社に就職した。



写真2 養老で作った窯

何度か転職をした後、1979年、35歳で独立した。
瀬戸市内でガス窯を使って創作を始めた。それまで、
瀬戸の陶芸家に弟子入りしていたわけではなかった。
「当時、家族を養うために稼がなければなりませんでした。」
技術営業職で全国を飛び回り、瀬戸のレベルでは比較的良い給料を得られました。
「弟子の立場だったら、小遣い程度の金しか入らず、生活できなかったでしょう」
そして、薪で焚く窯に興味を持ったのは、独立してからのことですが、
瀬戸市品野町で薪の窯をやっている友人がいて2、3個焼いてもらい、
それがとても良かったので、薪の窯をやろうと考えました。
あの焼き具合が何とも言えずいいものです。
焼き物をやるなら薪で焚く窯でなければと思い、1981年に煉瓦約千丁で
焚き口から煙突まで約3メートルの小さい窯を作りました。
作り方を教えてくれる人がいないので、自分で考えて作りました」ということである。

2 本格的に活動を始める


「町の中で薪の窯をやると煙の害があるので、1983年に瀬戸市吉野町にある、知人の土地を借りて、
丘の斜面に穴窯を作りました。
煉瓦五千丁を使い、長さ約14メートルの本格的なものでした」これも岡崎さんの考案による手作りである。
ただ、いろいろと事情があり、古窯と同様の穴窯を復元するまでにはならなかった。
また、1993年には、頼まれて岐阜県養老で穴窯を作ったりもした。
「窯のすぐ裏手の広久手町には古窯がたくさんあります(広久手古窯郡)。
古窯をあちこち歩き回り、落ちていた欠けた茶わんなどを見て、平安時代や鎌倉時代の焼き方を研究しました。
それで、昔の焼き方を再現してみようと考えるようになりました。瀬戸の焼き物は、平安時代では高級品としてのものであり、
鎌倉時代以降では大衆的なものになってきています。
時代によって作り方が違い、興味が尽きません。



図1 卵平窯(瀬戸市吉野町で使っていた穴窯)の略図:岡崎 隆彌氏作図

ただ、昔の焼き物の贋作を作るというわけではないので、
誤解のないように願います。」
このように、昔に技術の受け継ぐというか、再現しようとする人が
少ないためか、そのうち外国から見学に来る人も現れるようになった。
また、名古屋テレビの『レッツ・ドン・キホーテ』等の番組でも
何度か取り上げられたりもした


図2 卵平窯(三重県阿山町(現在伊賀市)の穴窯)の略図:岡崎 隆彌氏作図

3 作業工程、作品について


「作業はまず、一年間に使う分の土をこねて、保存します。大小数百個の作品の製作に一ヶ月、乾燥後、百時間焼き、
そして百時間冷まします。この間、家内や手伝いの友人と交代で火の番をします。
今は素焼きはやらず、作品を厚めに作って一度焼き(素焼きはやらず、一度だけ焼くこと)をします。
これだと歩留まりは6割から8割くらいです。釉薬は、使うときと、木の灰から出る自然釉でやるときがあります。
3ヶ月に1回焼くようなサイクルでやっていました。」釉薬を使い始めたのは国内では瀬戸が最初であり、
灰釉(かいゆう)という、草木の灰を溶媒として作られる釉薬は、平安時代から伝わる日本最古のものである。
瀬戸ではこのほか、鉄釉、古瀬戸、織部、黄瀬戸、志野、御深井(おふけ)の6種類の伝統的な釉薬がある。
岡崎さんの作品には灰釉を使ったものが比較的多い。平安時代にも鎌倉時代にもガス窯はなかったのだから、
今日、穴窯で薪を焚いて、昔からの釉薬を使った焼き物を作るのは意義あることと思われる。
なお、薪で焚く窯であっても、自然釉の影響を避けたい場合、「えんごろ」と呼ばれる器に作品を入れて焼いている。
「作品は、実用品であるとともに工芸品の要素を持たせています。
薪で焚く窯なので、作品のできばえがその都度違います。二つとして同じ物はできません。
毎回のでき上がりが楽しみです。ガス窯だと作品は安定していますが、面白みに欠けます。」

岡崎さんのお得意さんには、作品の多くをたんすの奥にしまいこんでいる人もいるそうである。

4、立ち退き


どうにか仕事を進めてきた岡崎さんであるが、1990年代半ばに最大の試練が訪れる。
「窯のある場所は、愛知万博予定地の南西の端にかかっており、立ち退きを求められました。
あの場所が良かったので動きたくありませんでした。それでも、いろいろなつてを頼って移転先をさがしましたが、
窯をやるには制約が多く、一旦決まった移転先も白紙に戻ったりで、移転先はなかなか見つかりませんでした。
その間、仕事もできず、収入もなく精神的に追いつめられました。
1995年の暮れになって、ようやく三重県阿山町に移転先が決まりました。
そして、1996年4月、悔しい思いの中、約50回焚いた愛着ある窯を取り壊して、瀬戸での活動を終えることとなりました。」

5、再出発


50歳を過ぎてから、また一からやり直すこととなった。
しかし、不馴れな場所、空白による技術の衰え等の不安材料があり、苦労が多かったと思われる。
「1996年の夏に、約二ヶ月かけて現在地に穴窯を作りました。そう長くやれるとは思わないので少し簡素に作りました。
ここは、不便で何もないところなので、都落ちしたような気持ちです。約二年の空白がありましたけど、
1996年の12月から今まで4回窯を焚くことができました。それから隣が信楽町なので焼き物とは縁のある所のようです。
ここの土の質は瀬戸とは違います。それは、人の顔がそれぞれ違うのと同じように、どちらが良いというものではありません。
仕事については、独立してから今まで軌道に乗ったことなどないですね。それだけ難しいものがありますし、
また陶芸の面白さでもあります。最近は年をとったせいか、夜の9時頃になると、もう明日にしようかと切り上げてしまいますが、
瀬戸にいた頃は真夜中でも仕事をしていました。

後継者は今のところいませんが、別に誰かに後を継いでもおらおうと思っていません。
私自身誰かの後を継いだというわけではないのですから。」
これは、誰かが将来、岡崎さんがしてきて事と同じような事を繰り返すことで、昔の技術を継承(再現)すると考えるか、岡崎さんの技術を誰か後継者が継承すると考えるかの問題である。
岡崎さんの歩んできた道は必ずしも平坦なものではないが、もっと業績が評価されてしかるべきではないだろうか。岡崎さんの今後の活躍を願ってやまない。




写真3 三重県阿山町(現在伊賀市)で使っている窯(人物は岡崎 隆彌氏)

6、おわりに


岡崎さんは昔の焼き方を再現するために穴窯を作ったのであるが、穴窯は構造が単純であり、
昔ながらの原始的な窯といえる。そのため、効率はあまり良くない。穴窯は横炎式になっていて、
炎が作品に横からあたるようになっている。一方、登り窯は穴窯等の改良を経て登場するようになった。
窯としては完成形であり、効率も良く大量生産が可能となったものである。登り窯は、倒炎式となっていて、
炎が上から下へ向かい作品にあたるような構造となっている。また、ガス窯の構造は登り窯を参考にしている。
なお、瀬戸には市の有形文化財に指定された「本業窯」と呼ばれる登り窯が2基残されている。
現在では観光資源としても重要になっている。

土橋 文明:つちはし ふみあき・愛知県津島土木事務所(1998年3月23日受理)
産業遺産研究第5号 より
Aiming at Reviving The Pottery Technique by the Anagama(Hole Kiln)
-Experiences of a Potter ; OKAZAKI Takaya
TUCHIHASHI Fumiaki